駆け出し顧問の練習日記

中学野球部員の生き生きした日常を一般公開します。私の監督としてのスキルアップも目指しています。

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ただいま11時59分。私もあと1分で30歳になります。

家族はみな寝静まっており、とても静かな夜。

そして12時!今年も無事、誕生日を迎えることが
できました。 お母さん、ありがとうの日です。

激動の20代よ、さらばじゃ。そして来るべき30代は
これからどうなっていくのでしょうか。

20代を振り返ってみて、一言で表すならば

「激」

という漢字に尽きますね。

本当に色々なことがありました。 

20歳の冬は上野から茨城へ向かう電車が
雪で止まってしまい、生まれて初めて線路の
上を歩いて、松戸駅まで歩きました。 カラオケ
ボックスで夜明かし。 そのとき付き合っていた
今の家内には申し訳ないことをしました。

20歳の夏に初めて家内のご両親と成田空港
で食事をしたものの、緊張のあまり全く食事が咽を通らず。
あんなことは初めてでした。

21歳の誕生日は、アイルランドへ留学中の
現家内がおめでとうコールをしてくれて、心の
こもった誕生日プレゼントを贈ってくれました。

22歳で母校に非常勤講師として就職し、
それからというもの、誕生日はテストの
採点で忙しい時期に常に重なるように
なりました。

23歳の誕生日を迎えてしばらくして、母校の
採用試験に合格。家内との結婚を決意します。

24歳で結婚し、それと同時に母校の看板クラス
の担任に抜擢されます。 生徒の引率で3ヶ月間
オーストラリアで過ごすなど、仕事に忙殺される
日々が続きました。

25歳の9月に長男が誕生。26歳の誕生日は
守るべきものがひとつ増えたことを実感しました。

忘れもしない26歳の1月31日、岐阜への転勤
が決まりました。初めて担任した生徒達の卒業式
では涙が止まらなかったのを覚えています。

27歳の誕生日を迎える頃は、環境の変化に肝臓が悲鳴を
あげ、体調不良の日々がつづき、また精神的にも辛く苦しい
時期でした。

私を支え続けてくれた家内も体調を崩してしまい、そんな時に迎えた
誕生日は自分の人生について真剣に見つめなおす機会になりました。

自分のやるべきことは何なのか、やりたいことは何なのか、
教員とは何なのか、本校の教育理念とは何なのか、そして
教員を続けるべきか否か、答えを探し続けました。

その年の2月に次男がお腹にいることが分かり、また
職場も4月から中学生の寮から高校生の寮に変わりました。
その頃から私も家内も少しずつ精神的に回復し、次男の誕生を
無事迎えることができました。

27歳の4月から中学野球部の副顧問として、再び野球に
関わるチャンスを頂きました。これまでとは全く違う角度で
中学生とかかわることになり、自分の目指すべきものが
この頃から少しずつ見えてくるようになりました。

28歳の2月、ここからブログがスタート。

28歳の4月から部活顧問、野球部監督としての
スタートを切ることになりました。 過去の自分と決別し、
生半可な気持ちを捨てるために、頭を丸め、願掛けの
ためにヒゲを生やし始めたのもこの頃からです。

指導者として1から勉強するため、全国各地の指導者の
もとに足を運び、少しづつですが着実にネットワークが
広がってきました。

そして20代最後の年に、1年生が起こしてくれた奇跡の
連続で、合同チームながら県大会3位に入賞。

よく考えてみると、20代の締めくくりとしては最高の結果でした。

20代のうちに、命をかけて守るべき人が3人増えました。

教員人生をかけて関わってきた野球部員も、延べ人数で
30人を越えました。

教員になってから接した生徒達の数も、もう数え切れない
程になりました。

ヘルニア、肝炎、胃潰瘍、鬱、尿管結石、肺炎、腸炎、その他
数え切れないほど病気や怪我もしました。

振り返ると、自分ひとりでは何一つ成し遂げることが
出来なかった、家族の協力と神様に支えられた20代でした。 

でも、そのおかげでこれから自分が目指すべき道と
生きるべき方向が見つかったように思います。

30代は、まず家族を大切にすることを第一に、
自分が目指すべき道に向かって一つ一つ、
着実に歩んでいきたいと思います。

さっそく平成20年にまた人生の転機が訪れ
そうな予感がしています。 何が起こるか楽しみです!

どうぞ、今日から30歳のshunをこれからも宜しくお願い致します!
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